人より劣っているという感情、劣等感は本当に悪者か?
若い頃、私は劣等感だらけだった。
当然、そんなんだから、自分にも自信がなく、暗くて、いじけてる子だった。
そんな自分が嫌で、劣等感を克服したいと、私は真面目に思っていた。
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こんにちは、ネパール在住ライターのみやちかです。
今日もネパールネタでなくてごめんなさい。
今日は劣等感についてのお話です。
この記事のもくじ
劣等感は生きている限りなくらない
「劣等感を克服したい」と冒頭で言っておきながらなんですが、大人になった(もとい、おばさんになった)今となっては「劣等感は、どうやってもなくならない」とも思います。
今でもありますよ、劣等感。
ついでに言っちゃえば、嫉妬心、虚栄心だってあります。
でも、あってもきっといいんです。
っていうか、凡人の私たちはこういう感情からはきっと生きている限り解放されない。
そういう感情を抱えながら、それでも前を向いて生きていけるかどうか。
大切なのはそこかなと今はそんな風に思っています。
だからね、劣等感を感じてもいいんです。
劣等感を感じている自分をちゃんと自覚してれば。
自分の価値は相対的に決まるものなのか?
そもそも劣等感とはなんでしょう。
突き詰めてみれば、劣等感なんて、ただの比較です。
他人と比較して自分は劣っていると感じることです。
ま、そりゃそうですよね。
世の中、自分よりできる人はたくさんいる。
田舎の30人しかいない中学校で学年一番だとしても、市内の有名中学に行けば落ちこぼれ。
あ~、私は、あの人よりできてないなんて思うことは多々あるもんです。
私なんて、毎日のようにありますよ。
でもね、それじゃあ、あなたの価値ってなんのなの?とも思うのです。
誰かと自分を比較して上か下か決める、そんな相対的な価値に意味があるのって思うのです。
相対的な価値なんて状況次第で変わるもの
だいたい人間なんて、誰一人として同じじゃないわけです。
りんごとももとみかんのどれが優れているか?
そんな比較意味ないでしょ。
単に好みの問題だという人もいるでしょう。
中には、カロリーという観点から、数値的に高いものを算出するという人もいるかもしれませんけどね。
糖度の高さで比べることもできることはできます。ただ、甘い果物が好きな人には糖分が高いことが優れていることになるわけですが、糖分を控えている人にとっては糖分が高いものはダメなわけで。
こんな風に相対的な価値なんて状況次第で変わっちゃうものです。
そんなものにどうして振り回されなくちゃいけないんでしょう。
意味ないじゃん、って冷静な私が頭の片隅で呟いたりもしています。
劣等感は本当に悪者なのか?
それでも、やっぱり、人は劣等感から自由にはなれないものかもしれません。
そして、劣等感を持つのは良くないと思っている人がほとんどだと思います。
でもね、あるものをないことにしちゃう方が良くないって私は思うんですよね。
自分に嘘をついてはいけません。(そもそも自分に嘘をつくことは不可能ですけどね)
それにね、だいたい、劣等感というのは持っちゃいけないような悪いものなのでしょうか?
劣等感から、自己否定して、うじうじと何もしないで落ち込むのは、そりゃほめられたことじゃないけど、それって劣等感の問題じゃなくて、劣等感を感じた後の自分の行動の問題でしょ?
自分は劣っている、まだまだだなと感じる。
至らぬところだらけの未熟者ですから、そう感じることがあってもそれはいた仕方ないことなんです。
でも、その先どうするか、そこが問題なんです。
「だから、もっと頑張ろう!」
劣等感という一見ネガティブな感情だって、頑張る糧にしちゃえばいいんです。
たかが劣等感、されど劣等感なのだ
そうやって、頑張って、頑張って、気がついたら、1段も2段も高いところに登れた自分に気がつく。
そして、その時、やっと自分と褒めてあげられる。
そうやって頑張る糧になるのだとしたら、劣等感も捨てたもんじゃありません。
でも、上には、上がいて、さらに5段も高いところにいる人にあっちゃったりするわけです。
その時に、思うわけです。
私は、まだまだだなって。
それを劣等感というか、謙虚というかは紙一重なのですけどね。
でもね、感情なんてね、その時のただの気持ちの動き、ゆらぎにすぎないんです。
(とはいえ気持ちの動きが私たちに及ぼす影響は多大ではありますが)
生きている限り、私たちはたくさんの感情を感じ続けることでしょう。
それこそが生きているということなんです。
そして、その感情とどう向き合うのかというのが大切なんです。
悔しいから頑張るのか。
自分はダメだと凹んで、うじうじと落ち込むだけなのか。
選ぶのは、結局は、自分です。