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ネパールの冠婚葬祭 村でお義父さんの喪に服す その1 13日に及ぶ儀式と使えない嫁編

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ネパールのポカラ在住、時々日本やタイ、その他いろんな国に出没する、エディター兼ライター兼コーディネイターのみやちか(Chikako Miyamoto)です。今まで培った編集力を駆使して、50歳からのトキメキのある人生を発信し続けるお姉さん。

 

ナマステ〜、ネパール人と国際結婚歴18年のmiyachikaです。

 

その国の文化を知る上で、冠婚葬祭は外せないところですが、『葬』の部分は、ネパール人の家族を持たない限り、あまり経験する機会がないと思いますし、おめでたい話ではないので、語られることは少ないと思います。

 

でも、ネパールの文化を知る上で、やはり欠かせない部分であることは確かです。

それで、今日は13日に及ぶネパールの葬儀についてご紹介したいと思います。

 

 

【注意】

まず、お断りしたいのは、私の経験は、ネパールのグルミ郡タムガス地方に住む、ヒンズー教徒のマガール族の葬儀についてです。

ネパールは多民族国家の上に、宗教も様々で、同じ民族でも住む地域が違えば、風習は様々です。

ですので、私の体験がネパールの喪についての全てのネパール人に当てはまるわけではないことをご了承ください。

 

 

ネパールのヒンズー教徒の葬儀は13日がかりである

 

お義父さんが亡くなって、はや6年です。月日が経つのは早いもので、お義父さんが亡くなって、数ヶ月の間、シクシク泣いていたお義母さんも、最近はすっかり元気です。

生きている間はいつも、お互い言いたい放題でよく口喧嘩をしていた二人でしたが、あれはじゃれあっていたんですね。気が強いお義母さんが、メソメソする姿に、本当に仲がよかったのだなあと、羨ましく感じました。

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そのお義父さんが、亡くなったのは9月の頭のことでした。その数年前から肝臓の病気をずっと患っていて、その前の月の8月には、ティーチングホスピタルで、「肝臓がもう使い物ににならないから治療のしようがありません。覚悟しておいてください」と言われていましたから、うちのツレアイも覚悟ができていたのか、「父亡くなる」という知らせが来た時も、そう動揺したそぶりは見せてはいませんでした。

 

お義父さんが亡くなったのは夜の7時ということでしたが、よく朝には火葬するという話でした。そんなにすぐ、火葬するのかと驚いた記憶があります。

ツレアイの村へはバスで12時間、そこから歩いて2時間です。知らせをもらった時点で、すでに、村行きの夜行バスは出た後でしたので、火葬はお義兄さんに任せることになりました。長男であるお義兄さんさえいれば、儀式の進行に支障はないのでしょう。

 

次の日の朝出発することにしたツレアイでしたが、この日から13日間、家族は塩抜き、ニンニク抜きのベジタリアン料理だけを食することになります。

日本では初七日にあたるものだと考えられますが、これがネパールのヒンズー教徒だと、13日間です(だから、忌引き休暇はたいていの職場で13日間認められています)。

この13日の間に葬儀に必要な様々な儀式が行われますが、それが終わるまで、 塩はご法度。食べるのはもちろんのこと、触るのさえもタブーです。

 

13日間、喪主たちが毎日することは、水浴び、儀式とご飯を一食

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ツレアイは、報せの届いた翌朝、早朝のバスで村へと行ってその日から喪に服しましたが、嫁である私は、9日目から喪に服せばよいということ。

遅くとも8日目の夜には村に着いておくようにと言い渡された私は、必死で仕事を済ませ、7日目にポカラから直接娘と二人で村へ向かいました。

学校も忌引きだと言えば、問題なく2週間程度休めます。

 

村に着くと、お義母さんと、義兄とツレアイは白い衣装で、家の外に座っていました。そう、ネパールの喪の色は、白なんです(お祝い事の色は赤です)。

衣装というよりは、白い布を巻きつけているだけと言った方が近い感じで、足ははだし、男性陣は頭の後ろの一束の髪だけ残して頭を丸めた状態(なぜか、全部剃らないで、後ろ髪の一部を残します)。

お義母さんは、10個以上つけていた耳輪、鼻輪、腕輪、首輪、すべて外し、髪を結わずにおろしています。白い布以外のものはヘアゴムでさえ、つけてはいけないのだそうです。

 

そして、13日の儀式が終わるまでは、母屋に触れることも許されないので、家の外に座っているのです。

話をすることは許されていますが、家の中に入ることはおろか、孫や嫁など家の人に触れることもタブー。 畑仕事をすることもだめだし、鶏や家畜に触ることもできません。

 

火葬が終わった後、毎日することと言えば、朝、パンディット(儀式を取り仕切るヒンズー今日の司祭)が来ると、一緒に水場に出かけ、清めの水浴びをして、そこでなんらかの儀式を行い、水場で塩抜きの食事を自分たちで炊いて、食べて帰ってくるだけ。

毎日食事はこの一食だけで、家に帰ると、離れの軒下で一日が終わるのを待ち、夜は、母屋の離れにある物置小屋のようなところで藁を引いて(13日間おふとんはつかえません)寝るだけです。

水場に出かける時もあらゆる生き物と接することはタブーなので、彼らの歩く前を、鶏避けにご近所の人が歩いたりしなくてはなりません。結構いろいろ大変なのです。

 

(時々、ポカラやカトマンズでも、頭を丸め、白い布を巻きつけただけの姿で水場へ向かう男性を見かけることがあるかもしれません。彼らは13日間の儀式の最中ですので、知り合いだったとしても、決して触ったり、邪魔したりしないように、ご注意ください!)

 

 

使えない嫁とネパールの農家の仕事

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嫁が喪に服すのは9日目からですが、それは、最初から嫁までが喪に服しちゃったら、家畜の世話や家の仕事をする人がいなくて困るからなのかもしれないですね。

だって、家畜は葬式があろうが、なんだろうが、お腹すかせて待ってますからね。

 

ちなみに嫁いでしまった娘たちは、火葬や13日目に執り行われる大きな儀式には顔を出しますが、家の人のように喪に服することはありません。それは、嫁に出しちゃったら、もうよその家の人ってことなのかもしれません。

 

それにしても、うちの家、義兄の子供たちが、カトマンズの学校に通うのに出て行ってしまって以来、普段は、お義母さん、お義兄さんとその奥さんであるお義姉さんの3人で家畜の世話と、畑仕事をこなしていました。

そのお義母さんとお義兄さんが喪に服して、畑仕事も家畜の世話もできないものだから、お義姉さん一人で大忙し。

 

7日目に合流した私、何とか、お義姉さんのお役に立ちたいとは思うのですが、いかんせん、できることが少なすぎる…。

水汲みっていっても、私が持てるのは、バケツ一杯、せいぜい10リットル程度。お義姉さんみたいに、20リットル入りの水瓶は背負えません。だいたい、持ち上げることすらできないのですから。

家畜の餌になる草や木の枝を集めてくる作業だって楽じゃありません。鎌をうまく使えないし、木にも登れない、集めた草や木の枝たちを上手に束ねることもできれなければ、それを背負って歩くこともできない。たかが草と思うべからず、あれ、案外重いし、額にかけた紐一本と背中でバランスをとりながら運ぶのは、慣れてない私に難しいのです。

かといって、草を食べるために牛を連れ出しても、一緒に戻ってこれる自信もありません。

 

豆や米を挽いて粉にする石臼は、重くて回せず、水牛の乳も絞れない、まな板がなければ野菜を切るのもぎこちなく、薪での煮炊きは勝手がわからず、じゃあ、一体何ができるの! って感じではあります。

 

お義姉さんの言うとうり、まったくもって使えない嫁なのですが、せめてもと思い、せっせと唯一できるお茶係と皿洗いと、箒係に徹しておりました。

 

大学まで出て、こんな簡単な村の仕事もできないのかとお義姉さんに呆れられながらも(意地悪じゃなくて、本当に彼女にとっては、私がこんな簡単なこともできないことが不思議で仕方なかったようです)、でも、それしかできないんですもの。仕方ないじゃないですか。

とにかく、できることをやるだけと、夜遅くまで皿洗い(かまどの灰をつかって、鍋やお皿を洗うという、いたってエコな方法です)をしていた私でした。

 

13日間の儀式の間の食事は何を食べるのか?

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さて、13日に及ぶ葬儀の全儀式が終了するまでは、塩抜き、ニンニク抜き、肉、魚、卵抜きの生活になるのですが、具体的にどんなものを食べていたか気になる人もいると思うので、ご紹介しますね。

喪主である、お義母さん、お義兄さん、ツレアイは初日からずっと一日一食だったのですが、嫁や孫たちは一応回数は普通に食べています。

嫁は9日目から一日一食になるため、8日目の夜は、たらふく食べろと周りの人に言われたのですが、でも、塩抜き料理ってそんなに食べれるもんじゃありません。

 

朝は、だいたいお茶。それにバナナかロティ(小麦粉を水で練ったものを薄く焼いたもの)。このあたりは塩なしでいけるし、いつもとそう変わりません。

でも、その後、いつもの朝晩のダルバートはもちろんなくて、ご飯にギュー(ネパール風無縁バター)とミルクをかけただけのもの。

おやつはお茶と果物、あとは焼きトウモロコシくらいでした。

それにしても、トウモロコシがあるシーズンでよかった! 水牛のミルクかけご飯よりも焼きトウモロコシの方が、なんぼか美味しかったし、腹持ちもよかったですもんね。

 

 

テレビも消したまま、音楽はタブー

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それから、この13日間はテレビもつけません。今から9年前(その当時からいうと3年前)に、この村にもやっと電気が送電されるようになって、うちの家は、村で数軒しかないテレビのある家でした。

いつも誰かご近所さんがテレビを見に来ていたのですが、この13日間はテレビがつけられることはありませんでした。

 

ラジオもかけない。音楽を流してはいけないし、踊ったり、歌ったりすることもだめなのだそうです(ま〜、それは、当然かもしれませんが)。

ただし、携帯電話の着信の音楽はあっちでもこっちでも、鳴ってますけどね。それはいいんかい、って感じですけど。

 

そうなんです。電気が来てから、うちの村でも、携帯電話が急速に普及したのです。

水汲みや、柴刈り、薪での炊事など、50年前とほぼ変わらない生活はそのままなのに、その片手にモバイルなんです。

モバイルでドバイに出稼ぎに出た兄とチャットしながら、畑仕事してたりしてね。なんか、ミスマッチなんですが、でも、便利になったなあとしみじみしました。

 

だって、それまでは、家から徒歩20分のお店まで電話をかけに行かなくてはならなかったんですから。

そんなことを考えながら8日目も無事になんとか過ぎていったのでありました。

 

そして、いよいよ、9日目から嫁も喪に服すことになるのですが、長くなってしまったので、続きは次回、『ネパールの冠婚葬祭 村でお義父さんの喪に服す その2 たくさんのギューと歩けない嫁編』でご紹介するとして、今日はこのあたりで、ナマステさせていただきます。

 

 

 

 

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