ネパール・キルティプールで初の本格的パペットシアターのワークショップ!通訳として参加した感想
こんにちは、めちゃくちゃご無沙汰しているみやちかです。
最近通訳させていただく機会が続いていますが、今回は、パペットシアターのワークショップのお手伝い。
演出家、俳優、人形遣いであり、Utervision Company Japan Director、NPO法人 種のアトリエ代表理事である佐次えりなさんと、ネパールのキルティプールでTHEATRE MALL&THEATRE CENTRE FOR CHILDLENを主催しているケダル・シュレスタさんとの出会いによって実現したワークショップ。参加者は子供9人と大人12人の計21名。
カトマンズに長居することが少ない私ですが、今回は、ワークショップの通訳として、10日間キルティプールに通いました。
普段あまり接することのないネパールの演劇関係者と過ごし、いろいろと思うことがあった10日間について、未だ消化できない諸々を整理するために書いています。
祭りの後で、 再確認したこと
10日間もあるのか、長いなぁと思っていたワークショップも、終わってみればあっという間。
遅刻するわ、作業が終わってなくても早く帰るわ、そのくせ、あれしてこれしての要求はたっぷりなネパール人のマイペースぶりに、日本から来た演出家さんはどう思っているのかと気が気でなく、能天気っぷりがすごい彼らの代わりに本番は大丈夫なのかと私の方が心配でやきもきした10日間でした。
人間関係のしがらみが日本とは比べものにならないくらい濃厚なネパールで、できるだけ新しい知り合いを増やさない方向でここ数年生きて来た私が、今回はたくさんのネパール人と関わり、最後はハグまでして別れるという予想外のラスト。
自分でも意外だったのは、本番が終わって、もうあの芝居小屋に通う必要がなくなったことをちょっと寂しく思っていることです。
何もない空っぽのステージが、ジャングルになり、王宮になり、シェークスピアの台詞が語られ、パペットが息づき、子どもたちが走り回り、そして、また空っぽになる。
舞台って、そこがいい。
形に残らないからこそ、心に残るものがあったりします。
舞台に立つと光る人がいる。
作業の間中、みんなを笑わせてくれる人がいる。
我が強い人。
ちょっと人見知りな人。
裏方仕事を押し付けられてばかりの人。
私をうんざりさせる人。
私を惹きつける人。
全員を好きになれるわけじゃないけど、好きな人、嫌いな人、よく理解できない人の間で、あれこれ葛藤するのは、世界中どこにいても何をしてもきっと同じです。
時には他人がどうしようもなく煩わしく、でも、時にどうしようもなく人に魅かれる。
他人にうんざりしながらも、私はやっぱり人間が好きなんだなと再確認する機会となりました。
ネパールだからできるものって何だろう?
今回のワークショップの講師であり、今回の演目の演出家である佐次さんの演劇に対して、人生に対しての姿勢に幾らかでも触れることができたのも、私には大いに刺激的な体験でした。
演出家、俳優、人形遣いとして世界各国で活躍、ラオスなどの途上国でも長きにわたって活動している佐次さんは、「ネパールだからできるものを、ネパールの人たちと私とで創っていきたい」と語りました。
彼女がこうして、ああしてと指示し、その通りにみんなが動く方が早いし、いいものが作れるのは分かり切っているのですが、彼女は決してそうはしません。それでは、遥々ネパールにまで来た意味がないと言います。
『ここネパールで、ネパール人とでしか創れないものを創りに来た』
そんな彼女の想いが今ひとつ伝わり切ってなかったように感じるのは、私の通訳の拙さもあるのでしょうが、『ワークショップ=教えてもらいにきた』的な参加者の受け身の態度も影響しているように感じられました。
彼女が知りたかったのは、見たかったのは、正しい演技や解釈ではなくて、多分、彼らなりのアイデアや表現。
「どうしたいの?」「どう思うの?」という問いかけを何度彼らに投げかけたでしょう?
ネパールの教育は、まだまだ教科書を暗記させるだけの先生が多いし、先生のいうことを聞く、先生の示した方向に沿って行動する子供が優等生っていう気風は依然としてあります。
でも、役者は、自分の解釈なしに動けないし、人生において暗記した答えなど役には立ちません。
このワークショップには、彼らが将来的にプロの役者にならなかったとしても、これからの人生をよりよく生きいていくためのヒントがたくさんありました。
50を過ぎた私でさえ、感じるものがありましたから。
自分はどう感じるのか、何をしたいのか、なぜしたいのか。
私自身にとっても、その言葉は重く、頭の中でぐるぐるしています。
表現は無限で自由だ
発展途上国でも、予算が少なくても、小さな小屋でも、あるものを工夫して面白い表現をすることはできます。
少ない舞台装置でも、王宮や、ジャングルを連想させることはできます。
参加者全員初めてのパペット作りと、パペットシアターでしたから、戸惑いがあるのは仕方ないかもしれません。
でも、〇〇がないからという言い訳をする人生って、つまらないと思うのです。
それに、〇〇がないという制限があるから、工夫が生まれ、アイデアが生まれるのかもしれません。
けれど、演劇のキャリアがない私がそれを言葉でどんなに説明したところで、そんなものは説得力を持ちません。
シアターでそれを身を以て実践してきた佐次さんだからこそ、伝えられるのものがあります。
何かを極めた人の言葉は重みがあると感じると共に、私の言葉の届かないやるせなさ、情けなさも実感する経験ではありました。
パペットに操られる人形遣い!?
ネパール人全員がそうとは言いませんが、全体的に見たときに、ネパールの国民性として、協調性、チームワークに欠けるように、私には感じられます。
一人一人の身体能力はいいものを持っているのに、それが全体として生かされないのが勿体無いなと思うのです。
それは、ネパールのプロサッカーチームの試合を見ていた時も感じたこと。
一人一人はスピードもある、瞬発力もある、シュートの勢いもある、にもかかわらずチームとしては脅威を感じられない。もっと勝てるチームを作れるはずなのに、本当に勿体無いのです。
そんなネパールだからこそ、パペットシアターのワークショップって演劇を目指す人だけでなく、あらゆる人に、中でも子供達やティーンエイジャーに一度は体験して欲しいなと思います。
今回のパペットは3人遣いのもの、だから、チームワークは絶対に必要なのです。頭と片手を担当する人、残りの手と腰担当の人、そして足遣いの3名が、舞台上で言葉での会話を交わすことなく意思の疎通を図って一体のパペットに命を吹き込なければなりません。
3人の息が揃えば、パペットに命が吹き込まれ、顔に表情が生まれます。
けれど3人の息が揃うなんて、そんなに簡単じゃありません。
思ったようにパペットが動かないことで、3人がそれぞれにイラついたり、ちょっと喧嘩になったり…。
うまくいかないときほど、我慢強い人、短気な人、不器用な人、傲慢な人、それぞれの人間性が見えてきます。
個々の人間性まであらわにしてしまうおそるべしパペット。
でも、3人だからこそ、表現できるものがあるのでしょうね。
たかだか10日間のワークショップでできることには限りがありますが、誰かと一緒に作り上げることの大変さと面白さを感じてもらえたのではないかな、そうであってほしいと思います。
この世界は舞台、人は皆役者なのだ
それにしても、私にとっても久しぶりにドキドキする体験でした。
本番前には、自分が舞台に立つわけでもないのに、本当に心拍が少し早くなったりもしました。
そんな自分に驚きつつ、ああ、こういう感覚久しぶりだな~と嬉しく思ったり。
娘とそう歳の変わらない若者たちとおしゃべりするのも久しぶりで新鮮でした。
ダンサーのプジャ、校長先生の奥さんのヒラ、みんなのまとめ役サンジータ、個性的な商人のパペットを作ってくれたスジタ、この小屋のマネージメントを仕切っているエリナ、ちょんまげ頭のマダン、髭男1背の高い方のサビール、髭男2ジェントルマンのマニッシュ、モンゴルフェースのサロージ、毎日私をバイクで送ってくれたプラシャント、即興セリフがうまいチティズ、あらゆる雑用係をこなしてくれたシャンカール、そして舞台挨拶が長いキルティプールの小屋の演出家であるケダルさん。
時間が経っちゃうと名前を忘れてしまいそうだから最後にここに記しておきましょう。
そんなわけで、10日間のワークショップは終わりました。
が、人生の舞台はまだまだ続きます。
シェークスピアの「お気に召すまま」のセリフ「この世界は舞台、人は皆役者」のように、生きている限り、私たちは、なんらかの役割を演じているのでしょう。
であるならば、自分はどう感じるのか、何をしたいのか、なぜしたいのか、を今一度見つめ直し、自分の役割をきっちりと演じていきたいもの。
50にして天命を知ると、かの孔子も仰っていますしね。