ネパールの冠婚葬祭 村でお義父さんの喪に服す その3 隣組あっての儀式と、なんとかやりきった日本人嫁編
ナマステ〜、ネパール人と国際結婚歴18年のmiyachikaです。
『ネパールの冠婚葬祭 村でお義父さんの喪に服す その1 13日に及ぶ儀式と使えない嫁編』では、ネパールの村での13日に及ぶ葬儀の8日目までについて、『ネパールの冠婚葬祭 村でお義父さんの喪に服す その2 たくさんのギューと歩けない嫁編』では、葬儀の9日目から12日目までのお話しをさせていただきました。
今日はその続き、13日目の最後の儀式と精進落とし、それから、それで終わりと思ったら大間違いだった14日目の隣組ねぎらいの会のお話です。
【注意】
まず、お断りしたいのは、私の経験は、ネパールのグルミ郡タムガス地方に住む、ヒンズー教徒のマガール族の葬儀についてです。
ネパールは多民族国家の上に、宗教も様々で、同じ民族でも住む地域が違えば、風習は様々です。
ですので、私の体験がネパールの喪についての全てのネパール人に当てはまるわけではないことをご了承ください。
この記事のもくじ
13日目の儀式は台所で執り行われる
13日目、とうとう一連の葬儀の儀式の最終日となる、大きな儀式が行われる日が来ました。
これまでも、亡くなった人の魂を慰め、迷いなく成仏できるように、毎日のようにパンディット(ヒンズー教の司祭)によりマントラが唱えられてきました。また、死後の旅を不自由なく過ごせるようにという配慮から、1年間に必要な食べ物や衣類をお供えもしてきました。
これらの儀式はお義母さんやツレアイが水場に水浴びに行った時に行われていました。
でも、13日目の最後の儀式は、台所のかまどの火を囲んで執り行われるということ。そのために、台所の土のかまどは一旦解体されることになります。鉄製の支柱が取り除かれ、解体されたかまどに、パンディットが火をおこし、火の周りには、亡くなった人の配偶者、息子、息子の嫁が並びます。
パンディットはマントラを唱えつつ、喪主たちにあれやこれや指示を出します。米をまいたり、聖水をかけたり、わけのわからないまま、パンディットの指示に従います。
家の外では、台所とは別に、5人のパンディットが、朝から、それぞれが違うマントラを唱え続けています。
一方、牛小屋は、牛を一時的に別の場所に移動させて、即席の台所になっていました。何しろ、今日の儀式が終わったら、親戚縁者、ご近所さんなど総勢200〜300名に及ぶ人数分のダルバートを振る舞うのです。牛小屋に大きな穴を二つ堀り、直径80センチにも及ぶ大鍋が運び込まれています。
都市部では、最近、ケータリングサービスを使うことが多くなっていますが、ここは、村。隣組の人々が炊事係となってくれます。
ネパールの村では、こんな風に、今でも、大きな儀式や、田植え、稲刈りなどの多くの人手が必要な農作業の際は、隣組で助け合っています。
13日ぶりの塩味のダルバートは感動的においしかった
わけがわからないまま、パンディットに言われるがままに、米を振りまき、水をふりかけ、花を投げたりする台所での儀式は、なんと3時間以上にわたって続きました。
これ、経験したら、日本のお坊さんのお経が短く感じられます。3時間座りっぱなしというのは、結構、きついもので、終わった時にはほっとしました。
この儀式が終わると、やっと、塩も食べれるし、普通の服に着替えることもできます(それにしても、季節で冬でなかったことには感謝です。冬だったら、寒さに耐えられなかったと思うのです)。
着替えて外へ出た時にはすでに2時を回っていました。朝から何も食べてないし、お腹はぺこぺこ。やっと食べ物を口にできます。しかも塩入り。
まずは、お茶とロティ(チャパティ)とアチャール(即席漬物的なもの)をいただきます。
お、お、おいしい!!!!
ただのアチャールがめちゃくちゃおいしいじゃないですか!
塩の偉大さを再確認いたしました。
家の外は、今日の儀式のために集まってくれた親戚縁者やご近所さんであふれていて、ダルバート(ネパールの定番食、カレーセット)を食べていました。私たちが家の中で儀式をしている間に、半分以上の人はダルバートを食べ終わっているようでした。
すでに帰り支度に入ろうとする来客に、喪主である息子たちから、最後にティカ(額につける粉)とささやかなお金が渡されます。日本でいう香典返し的なものなのだと思います。ギューが入っていたツボを綺麗に洗い、その中に、お金を入れたものを返すのです。
そんな感じでその日は夕方まで人が来たり帰ったりというのが続きました。
お義母さんの涙とかまどの再生
いつもなら、皿洗いは私の仕事ですが、このお振る舞いのためには、皿洗いの人を雇っているので、しばし、のんびり、久々の塩味のダルバートを味わい、親戚のおばさんたちと歓談。
ただ、ふっとお義母さんを見ると、家の一角に一人で座り、ポロポロと涙を流していて、その姿には、心が痛みました。儀式の最中は、しなくてはならないことがあれこれあって、気丈に振舞っていたのでしょうね。全ての儀式が終わり、ふっと一人になった時に気が緩んだのかもしれません。
口が悪いところもあったお義父さんだったけど、本当は優しい人でした。
そうか、もう村に来ても、お義父さんに会えないんだ。
なれない儀式に沿うことに意識が行きっぱなしだった私でしたが、急にお父さんがいないことが大きなことに感じられました。
もっと村に来てあげればよかった。もっと、会った時には話をすればよかったと少し後悔しました。
そして、夜。
すべての儀式は終わったかと思っていたのですが、もう一つ、しなければならないことがありました。
かまどの再生です。
儀式のために、解体されたかまどが再び作られます。そして新しいかまどで初めての食事を食べて、1日を終えねばなりません。
このかまどを作るのは、家の者ではダメなのだそうだ。故人の姉妹のご主人にあたる人によって作られなければならないのです。
家の者は、かまどが作られ、食事が作られるのをただ待つだけ。そして出来上がったチキンカレーとご飯をいただき、やっと1日が終わります。
長い、疲れた1日でした。みんなも疲れていたのだと思います。ご飯が終わるとそうそうに久々のおふとんの寝床へと消えて行きました。
14日目は思っていた以上に忙しい 隣組へのお振る舞い
さて、大きな儀式は終了したし、今日はゆっくりと休めると思った14日目でしたが、果たして、そんなに甘くはなかったのでした。
14日目は、13日間、いろいろサポートしてくれた隣組の人たちをねぎらう日。昨日、炊飯係で一日中忙しく働いてくれた彼らのために、今日は、我々がお振る舞いをする日なのです。
昨日働いてくれた隣組の人々約20名、そして、家の者と、泊まっている親類約20名、合計40名分の食事を作らねばなりません。
そのために、一匹のヤギが犠牲になることに。
まずは、ロキシー(自家製蒸留酒)とロティ(から焼きのパン)とヤギのシェクワ(直火焼き)風のものが振舞われ、その後にヤギカレーとご飯が出されました。
また、昨日のお振る舞いのために、御近所さんから借りた食器や水タンクなどなどの返却もしなくてはなりません。
スチール製のコップやプレートの裏には、各家を示す印が付けれられていますから、それを元に食器を仕分けします。大きなお振る舞いの時は、村ではこうやって、食器を貸し借りしているのです。
とまあ、そんなわけで、私にとってはもっぱら、皿洗いと食器数えに終始した1日となりました。いや〜、1日でいったいいくつ食器を洗ったでしょう?
でも、このお返しが終わって、本当にやっと一休みできるといった感じなのです。
他人に関心があるのは、無関心よりずっといい
そんな風に、ほっと一息ついたのもつかの間、本家のおばあさまが危篤状態であるという報せが入りました。本家のおばあさまの家までは徒歩20分。最後のお別れに家の者が交互に訪問しました。
本家のおばあさまは、すでに97歳、もうかなりの高齢です。多分この村でも指折りの長寿です。特に病気というわけではなく、老衰のようなのですが、小さく痩せた、手を握ると、弱々しくも、握り返してくれました。
シワだらけで痩せた手でしたが、97歳という大往生で、家族に囲まれて自宅で最後を迎えられるのは、病院で死ぬよりも幸せなように思えました。
村の生活の方が、都会のそれよりもシンプルな分、人の生き樣はクリアに見えるのかもしれません。人が生まれて、生きて、死んでいく。その当り前のことが目の前で展開されていきます。
数人の村人が集まれば、どこどこの誰々が、どうしたこうしたという、うんざりするようなゴシップ大会ではあるのだけれど、でも、他人にとても関心があるのは、無関心であるよりはずっとマシなような気がします。
家で生まれ、家で死んでいく。隔離された病院で生死が展開される生活とは違い、村では、生活の中に生死があります。そんな暮らしの中で育った子供たちは、自然に体験を通して、生死について学んでいくのだろうと感じた村滞在でありました。
さいごに
冠婚葬祭や季節の行事を大事にするネパールの人々。仕事の合間にそれらをするのではなく、まずは、冠婚葬祭、家の用事が最優先で、仕事は二の次のようにさえ感じます。
でも、こんな風に、本来は、仕事なんてものは、冠婚葬祭よりも優先されるべきものではないものなのかもしれません。
なんて、思っちゃうあたり、ネパール人になりつつあるんでしょうかね? 私…。
そんなことをつらつらと思う今日この頃です。