50歳から海外でフリーランスとして生きる

誰にでも間違える権利はある! のだというお話~大学生になる娘へ贈る言葉

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ネパールのポカラ在住、時々日本やタイ、その他いろんな国に出没する、エディター兼ライター兼コーディネイターのみやちか(Chikako Miyamoto)です。今まで培った編集力を駆使して、50歳からのトキメキのある人生を発信し続けるお姉さん。

 

こんにちは、ネパール在住ライターのみやちかです。

 

私には、ネパール生まれで15歳までネパールで育った娘がいます。

その娘も18歳、ついに、ついに高校卒業しました。

(アメリカンスクールに通っていたので6月が卒後式でした)

 

そして、8月からは、大学生です。

 

子ども、子どもと思っていたら、あっという間に大学生ですよ! 

びっくりしちゃいます。

 

とはいえ、母にとってはいつまでやっぱり子どもであることに変わりなく、本当はあーだこーだといろいろと口を挟みたくなることもまだまだあります。

 

でも、そういうとき、思うんです。

 

彼女には、彼女の人生を、自分で考えて、決める自由がある。

それを奪っちゃいけない。

 

って。

 

もちろん、決断の結果がいつもうまくいくとは限らず、回り道しちゃうこととか、落ち込むこととかあるかもしれません。

 

でも、なが~い目で見たら、それって必ずしも悪いことばかりじゃありません。

 

だから、人は誰でも、自分で決めて、間違える権利があるのです。

 

 

その小さな親切は、本当に相手のためになるのか?

 

自分の周りの近しい存在の人たちが、かつての自分と同じ落とし穴にはまってもがいているのをみたりすると、お節介にもつい手をかしたくなることってありませんか?

 

自分と同じような間違いをおかしそうになるのを見ると、止めたくなります。

行き止まりの道を行こうとしているのを見ると、教えてあげたくなります。

相手が自分の子どもであればなおさらでしょう。

 

でも、彼らには、自分で考えて、選んで、間違える権利があるのです。

 

失敗を迂回する生き方がベストな生き方なのか?

 

という問いの答えは、人生観の違いによっても異なるかもしれません。

 

失敗のどん底にいて、その失敗をありがたく受け止めるなどどいう広い心はワタクシも持ち合わせてはおりません。

 

でも、失敗しない人生なんてないのだろうと思うし、逆説的ではありますが、人生に失敗というものすら本当はないのかもしれません。

 

 

え?

意味がわからない?

 

 

そうですね。

 

こういうことって言葉で説明するの難しいですね。

 

 

そもそも「失敗」や「間違い」の判断基準ってあるのだろうか?

 

現代の社会や世間が「失敗」や「間違い」と呼ぶような現象は誰の身にも起こり得ます。

 

しかし、それらの「失敗」や「間違い」は、時代によって、環境によって、住んでいる国によって変わってくるような曖昧なもの。

 

そこには、絶対的な定義もなければ、判断基準もありません。

 

かの有名なトーマス・エジソンが、成功しなかった実験のことを『うまくいかない方法を発見』と表現したように、「失敗」や「間違い」なんてものは、見る角度次第なんじゃないでしょうか?

 

また、人生の目的あるいは魂の目的という観点から物事を見た場合、そこには成功も失敗もなく単なる必要な経験でしかないのかもしれません。

 

だから、思うのです。

 

「失敗」や「間違い」を恐れずに、自分で必要な経験を選べばいいんだって。

 

だって、私たちは、様々なことを経験したくて生まれてきているんですから。

 

そして不思議なもので、『必要な経験』と言い方を変えただけで、その出来事の負の部分が気分的にちょっと軽くなったりもするのです。

 

 

黙って見守るのは、口出しするより難しい。

私たち一人ひとりは、誰一人としてまったく同じではあり得ません。

それぞれ別の考え方や感じ方をする別の人間です。

 

だから、誰かが「失敗」や「間違い」だと思っていることが、他の誰かにとっては単に必要な経験にすぎないこともあるのです。

 

親にとって正しいことが、子どもにとっても必ずしも正しいとは思えなかったり、魅力なやり方に思えなかったりするのは、むしろ当然のことでしょう。

 

 

だから、可愛い子には旅をさせろ

と思います。

 

黙って見守ることが必要な時だってあります。

 

親にとっては歯がゆいし、心配だし、口を出しちゃうほうがよっぽど楽は楽なんですけどね。

 

その楽をあえてしないこと。

小さな親切が、自分が安心するためであってはなりませぬ。

 

 

人間が持って生まれた最大の権利は、選択の自由だ

 

自由という言葉の意味は、人によって捉え方が違うものでしょうし、私の意見が正しいかどうかわからないけれど、私は、人間が人間たるのは、自分で考えて選べるという選択の自由故じゃないかと思う時があります。

 

それは、裏返せば、間違えたり、失敗したりできる自由です。

 

あらゆる経験をすることができる自由です。

 

人は誰でも選択の自由を権利として持って生まれている。

自分の人生に関して、自分の判断で選び、行動する権利がある。

 

その権利は私もあるし、そしてあなたにもあるし、すべての人に与えられているものなんです。

 

それなのに、その権利を放棄して、だれかに正しい選択をしてもらいたがるのも人間です。

 

その方が楽だからね。

 

でも、あなたは、したいことはどっちなんだろうね?

 

楽したいのか?

楽しみたいのか?

 

答えはわかりきっているはずなんだけれど、それでも、ときどき楽な方を選んじゃうのが人の弱さ。

 

でも、弱さを抱えながらも、その誘惑に負けないからこそ、人は自分を誇れるのかもしれません。

 

自分で考えて、選択するからこそ、自信を持てるんじゃないかなと思います。

 

 

相手がどんな選択をしても見守れますか?

 

 

だから、娘には、挫折や失敗を恐れて、選択の自由を放棄しないでほしいのです。

 

自分で決めて行動する自由には、常に責任がつきまといます。

 

その責任とともに、人生を謳歌してほしいと思います。

 

 

親にできることは、子どもがどんな選択をしても、愛情をもってそれを見守ってあげることくらいです。

 

それは親子だけのことじゃなくて、夫婦でも、親友同士でも同じなんだろうと思います。

 

 

人は、相手のためと言いながらつい傲慢に、人の人生をコントロールしようとしてしまうこともあります。

 

もちろん、私の中にもそんな部分がないとは言えません。

 

だからこそ、こうやって文字にしておきたいのです。

 

 

私が大切なことを忘れないために。

大切なことを思い出せるように。

 

人は誰でも、自分で決めて、間違える権利がある

 

ってことを。

 

 

 

 

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ネパールのポカラ在住、時々日本やタイ、その他いろんな国に出没する、エディター兼ライター兼コーディネイターのみやちか(Chikako Miyamoto)です。今まで培った編集力を駆使して、50歳からのトキメキのある人生を発信し続けるお姉さん。

Comment

  1. アバター おぎのひろこ より:

    ちかこさん

    心に深く染みました‼️
    開田でちかこさんに
    劣等感を克服できるといいのに!
    と言われた事覚えていますか?

    今回の開田で一番心に残ったコメントでした‼️
    そうなんです‼️ずーと劣等感と向き合う事から逃げていたの。劣等感を克服したいと思いながらね…
    私の過去の経験をどう消化すればいいのかわからなかった!ちかこさんのブログで気づいた‼️
    私は過去を特にチェロに関してずーと失敗した!
    きちんとやらなかった自分を責めていた!
    だけど失敗じゃなくて、間違いじゃなくて、
    その経験があるから今の私がいる!
    今頑張っている私がいる!
    過去の経験をポジティブに受け止める見方にシフトチェンジする切っ掛けをちかこさんがくれた
    どうもありがとう❤️
    子供達もしかり‼️ただ見守っていきたい‼️
    見守るってとーても厳しいけれど、人として成長していくためにとても大切だよね‼️
    それが親の愛情だと実感しています
    もっと深いところから実感できるように
    愛情をもって見守っていけるように
    このブログをしっかり腑に落としていきます
    次回お会いする時には劣等感を克服しているように
    日々を、重ねていきます
    どうも、ありがとう❤️

    • アバター miyachika より:

      コメントありがとうございます。
      メールでお返事しましたが届いているといいのですが。
      いつもありがとうございます!!

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